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この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2017年1月23日 17:51貼付。 |
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松方 弘樹(まつかた ひろき、1942年7月23日[1] - 2017年1月21日[2])は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は目黒 浩樹(めぐろ こうじゅ)[3]。東京市王子区(現在の東京都北区)出身[4][5]。身長173cm、血液型はA型[1]。左利き[6]。個人事務所である株式会社MARE(マーレ)所属[3]。
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もともとは歌手志望で、作曲家の上原げんとの下で五木ひろしらと席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信を無くし、父と同じ俳優の道に入った[7][8][9]。17歳で『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』(1960年、東映)で主演デビュー[10][11][12]。同学年の北大路欣也とはライバル関係で[8][13]、松方は東映専属だった北大路とは違い、企画制作担当重役だった岡田茂の個人預かり(フリー)であった[14]。映画『893愚連隊』の主演[15]、『昭和残侠伝シリーズ』の助演、『人形佐七捕物帳』(NHK)の主演など、主に時代劇やヤクザ映画に出演。中でも佐七は松方の当たり役になり、その後に制作されたテレビ朝日の『人形佐七捕物帳』でも再び主演した。
1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)まで岡田茂に大映へレンタルされ、亡くなった市川雷蔵の穴埋めを期待され雷蔵の当たり役を演じた[8][16]。1970年(昭和45年)春、ダイニチ映配設立に反対して大映社長の永田雅一の逆鱗に触れて、半年出演を拒否された。
大映の倒産直前の1971年(昭和46年)春に東映へ復帰し[13]、1972年の四カ国合作映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』、1973年(昭和48年)の『仁義なき戦いシリーズ』などで敵役・悪役で芸域の幅を広げた[10][15][17][18]。「仁義なき戦いシリーズ五部作」では、三役を演じ分ける怪演を見せた[9][13][16][19][20]。それまで東映の大量生産の煽りで撮影の連続[5][21]、演技に厳しい父が一度も褒めてくれず、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたとき、本シリーズに巡り合い、演じることの醍醐味を味わい、役者を開眼したと話している[21][22]。
1974年(昭和49年)大河ドラマ『勝海舟』で、病気降板した渡哲也から主役を交代した際、兄妹役で共演した仁科明子と不倫関係となりマスメディアを賑わせた[23]。同年の映画『脱獄広島殺人囚』は『暴動島根刑務所』『強盗放火殺人囚』と合わせて「世界最強の脱獄アクター」「松方弘樹東映脱獄三部作」と評されている[24]。『県警対組織暴力』や『暴力金脈』『実録外伝 大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』や、現在進行中の抗争事件を映画化し、映画の製作が原因でモデルとなった組長が殺害された『北陸代理戦争』[9][25][26]などの実録シリーズでも強烈な個性を発揮した[11][13]。『修羅の群れ』の主役を張って一本立ちした[12][18][27]。
1978年(昭和53年)の『柳生一族の陰謀』で時代劇映画に復帰。それ以降は仁侠映画と共に活動の二分となった。テレビドラマでは大河ドラマ『勝海舟』や時代劇『大江戸捜査網』の主役を務め、三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)をすべて演じたほかに、真田幸村は映画・テレビドラマで計二度演じた。
俳優業の一方で、バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』ではそれまでのイメージを覆し、冗談好きで笑い上戸な一面をみせ、以後バラエティ番組にも顔を出すようになる[13][8][12][28]。1990年代までは、ドラマ・バラエティともにレイバンのサングラスをかけながら出演し、それがトレードマークにもなっていたが、2000年以降はメガネを外して出演していた。
2016年(平成28年)2月23日、脳腫瘍の可能性があり、長期療養のため出演予定だった3月1日から6月8日までの歌謡ショーを降板し、6月からの舞台も中止すると発表した[29][30]。検査の結果「脳リンパ腫」との確定診断を受けたことが発表された[31]。抗がん剤の投薬治療を行う[32]。
2017年(平成29年)1月21日午前11時26分、脳リンパ腫により死去[13][33][34][35]。74歳没。
2017年(平成29年)1月23日午後6時頃、メディアを通じて、松方の訃報が公式に発表され、その夜に弟の目黒祐樹が涙をこらえながら、闘病生活とその最後と葬儀をごく親しい近親者だけで行ったことを公表すると共に、生前において松方に関わった関係各位や応援にしてくれた者達に対して、感謝の意を述べた。
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父は時代劇俳優の近衛十四郎。母は女優の水川八重子[8]。松方は長男で、弟は俳優の目黒祐樹[15]。最初の妻で元モデルの夏子との間に長男の目黒大樹(親権は松方)、長女 なえ、次女 なち[19][36]。2度目の妻・仁科亜季子との間に、次男の仁科克基と三女の仁科仁美(親権は2人とも仁科)[11][15]。愛人関係であった千葉マリアとの間に十枝真沙史(松方は認知)[37]。義妹は江夏夕子、弟の祐樹と義妹・江夏との間に姪の近衛はながいる。仁科とは1974年の大河ドラマ『勝海舟』での夫婦役で共演後に恋仲となったが、松方は当時既婚者で仁科の父・岩井半四郎が激怒する様は当時の芸能マスコミでも取上げられた[19][37][38]。
趣味は父の十四郎と同じく釣りである[8]。松方とは盟友の梅宮辰夫は「(松方は)お父さん(近衛十四郎)がヘラブナ釣りが好みだったせいか、本人も池でのヘラブナ釣りが趣味だった」と明かしている[39]。また松方と梅宮が釣りに挑む『松方弘樹・世界を釣る』と題したテレビ番組が放送されたこともある。
また自身は年に何度か山口県萩市の見島沖、八里ヶ瀬と呼ばれる海域周辺でマグロの一本釣りを楽しんでおり、見島のある旅館には松方弘樹と名前が書かれた釣り道具が常置されている。マグロ釣り大会の実行委員を務めるほどで、2008年(平成20年)11月23日に行われた大会では約305kgのクロマグロを釣り上げ、195万円の値がついた[8]。2009年(平成21年)11月22日に行われた第12回萩クロマグロトーナメントでは、体長2.73m、体重325kgのクロマグロを釣り上げて前年の記録を更新した[8][40]。約437万円の値がついた。
2015年(平成27年)石垣島への釣行で、約6時間半のファイトの末、自己最高記録361kgのクロマグロを釣り上げた。
豪放磊落な人物としても知られた[8][12][19][36][37][41]。酒豪で最高記録はウィスキー5本に日本酒1升[5]。飲み比べでは無敵で、千代の富士にも負けなかった。唯一負けたのは天龍源一郎という[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%BC%98%E6%A8%B9